「水でも飲もうか……」
かなり汗をかいてしまっているから、水分を補給してからシャワーを浴びようと、キッチンのある1ッ海に下りていくと、廊下に大きな塊を発見した。
「……むぎちゃん?」
差し込む月明かりに照らし出されているのはこの家の家政婦である鈴原むぎの姿。廊下に倒れてしまったのかと思い、慌てて駆け寄ると、すやすやと寝息を立てている。
「むぎちゃん、こんなところで寝ちゃだめだよ? ほら、おきて」
揺さぶって起こしてみると、寝ぼけ眼のむぎがとろんとした瞳で依織を見上げた。
「あれ、あたし……?」
「どうして、こんなところで寝てたんだい?」
「んーと、お水飲んで……。ころんで、廊下が冷たかったから、気持ちよくて……」
言ってる間にも夢の世界に行ってしまいそうなむぎに依織は苦笑する。地下の運転手部屋はどうしても空気がこもりがちになるし、むぎが毎日掃除してくれているおかげでこの家の廊下は綺麗に保たれている。寝てしまっても師匠のないほどに。毎日の生活で疲れているむぎが途中で力尽きて、寝てしまえるくらいには快適なのだろう。…とはいえ、女の子をこのまま廊下で眠らせるわけにはいかない。
「ほら、むぎちゃん。自分の部屋で寝なさい」
「ん~。依織くんは?」
「え?」
不意に切り返され、依織が戸惑う。
「最近、ちゃんと寝れてる?」
「お見通しなわけ、か……」
「シャワーとか使った後とかグラスが残ってたりするんだもん……」
伊達に家事を任されているわけではないということである。ちゃんと見ていてくれている、と言うことだ。
「依織くんがちゃんと寝たら、寝る……」
「今にも寝そうな人が何を……」
「じゃあ、あたしもこのまま寝る……」
コロンと床に寝てしまいそうなのを慌てて支える。
「わかった、寝るから……。むぎちゃんは自分の部屋で寝なさい……」
シャワーは諦めることにして、とりあえずはむぎを寝かせることが最優先だ。だが、むぎは首を縦には振らない。
「依織くんがちゃんと寝たら、寝る……」
今にも閉じてしまいそうな瞳では説得力もあったものではないが、むぎが頑固なのは承知している。どちらかが折れるしかないが、このままだとまた眠ってしまいそうだ。
「じゃあ、僕が寝るのを確認したら寝るんだね?」
「うん、お部屋まで送ってあげる……」
男女逆だろう…と苦笑しつつ、依織はむぎに促される形で自室に戻った。
(真夜中に男の部屋に入ることに危険を感じないのもどうかと思うけど……。危機感はまぁないだろうし、ほとんど寝てるからね……)
苦笑しつつ、依織がベッドに入ろうとする前に、むぎは依織のベッドに駆け寄り、その枕を手に取る。
「むぎちゃん?」
「まくらさん、まくらさん。依織くんにいい夢を見せてあげてください。朝まで、ゆっくり眠らせてください」
おまじないのように枕にそう語りかけて、むぎはポンポンと枕をたたく。
「おまじない完了~」
子供のように無邪気に笑うむぎ。
「おまじない?」
「うん。あたしがね、怖い夢見て眠れなくなった時、お姉ちゃんが枕に呪文かけてくれたの~」
「そう、よく眠れたんだ?」
「うん、ぐっすり」
仲のよい姉妹だったことが伺える。むぎにとっては絶対的な呪文だったのだろう。
「だから、依織くんも大丈夫」
確信めいた口調で言われると、本当にそうなってくる気もしてきて。目覚めた時の嫌な気分は霧散してしまった。
「はい、お布団に入って」
促されるままにベッドに寝かされ、シーツをかけられると優しく頭を撫でてくれる。
「依織くんがねむるまで、こうしてあげるね……」
「これも、お姉さんがしてくれたのかな?」
「うん。お姉ちゃんのおまじないの仕上げなの……」
優しく撫でる手の暖かさに心がゆっくりと温かいもので満たされていく。確かにおまじないの効果はあるのかもしれないと依織は思った。しばらくの間瞳を閉じていると、むぎの手が止まってしまう。
「むぎちゃん?」
「……」
気がつけば、むぎはすやすやと眠っていて。依織はむぎを起こさぬようにそっと起き上がりはしたものの、どうしたものかと思案に暮れた。
「こら、むぎちゃん、起きなさい」
声を掛けてみても、完全に寝入ってしまっている。抱き上げて、部屋に連れて行く途中で目覚められてしまえば、元のもくあみである。
「仕方ない、な……」
起こさぬようにむぎを抱き上げて、ベッドの中に寝かせてしまう。依織はそのまま離れようとしたのだが、
「ん~」
「寝ていても、行動力は変わらないのかな……」
と、苦笑する。しっかりとパジャマの裾を掴まれてしまっているのだ。
「仕方ない、か……」
無理にむぎの手を外そうとすれば、起きてしまうだろうから。これは仕方ないのだ、と自分に言い聞かせて。
(僕らしくはないけどね……)
むぎに出会う以前の依織なら、何とでも動けたのに。今はそうしたくない。だから、『こういう状況だから仕方ない』と自分に言い聞かせるのだ。それがどういう変化なのかはまだ自分でもはかりかねるけれど。
(今はこうしているだけでいい……)
むぎを起こさぬようにベッドに入ると、無意識にかむぎが依織にすり寄って来る。もしかしたら、姉の、家族のぬくもりを思い出しているのかもしれない。そうおもうと、胸が切なくなる。自分よりも、四つ年下の少女。ごく平凡な過程で愛情を注がれて育ったのだろう。その受けた愛情を庵にも分けてくれているようで、面映さを覚える。それはこの家の住人たちもそうなのだろうけれど、こうしてむぎのぬくもりを近くで感じていると、余計にそれを意識してしまう。何て、暖かいのだろう。凍える胸のうちを温かな何かで溶かされるような、そんな感覚。
「おやすみ、むぎちゃん……」
そっと、その額に口付けを落として、依織も瞳を閉じた。むぎのもたらしてくれた暖かなものがゆっくりと眠りへと誘ってくれる。明日の朝のむぎの反応が楽しみかもしれない、そんなことを考えながら、ゆっくりと眠りに落ちた……。
翌朝、目が覚めたときには思った以上に快適だった。とっさに傍らを見ると、未だに夢の中にいる家政婦さんの姿。気持ちよさそうに眠っている。時計を見ると、そろそろむぎのおきだす時間だ。起こすべきかどうか、迷っていると、しばらく身じろいでから、むぎはぱちりと目を開けた。
(習慣で体内時計が出来上がっているのかな?)
くすくすと笑う依織に反応し、むぎは依織を見上げる。
「あれ、ここ……」
自分の部屋でないことを知り、むぎは混乱しているようだ。
「覚えていない? 昨日の夜のこと……」
依織の言葉にむぎはしばらく、記憶をめぐらせて。そして、ハッと依織の顔を見つめる。
「あ~。えーと……。あたし、あの後寝ぼけて、依織くんのベッドにもぐりこんだの?」
とりあえずは途中までは覚えているらしい。依織を寝かせている途中で寝ぼけて自分からもぐりこんだのだと思っているようだ。普通はもうちょっと慌てていてもよさそうなものだが、警戒心のなさに依織は苦笑する。
「違うよ。僕が寝付いた跡に君も眠ってしまったらしくて。僕は目覚めたら、君が眠っていたから、少しはベッドで眠った方がいいと思ってベッドに入れたんだよ」
さすがん本当のことは言わない。そうしたら、きっと大騒ぎになってしまう。
「あ、そうなんだ……。ありがとう、依織くん」
素直で人を信じやすいところが彼女のいいところだと思う。
「よく眠れた?」
気になっていたらしい言葉を聞いて、依織は極上の笑みを浮かべる。
「うん。ぐっすりと眠れたよ。むぎちゃんのおまじないのおかげだよ」
「本当、よかった~」
無邪気に喜ぶむぎに悪戯心をくすぐられる。むぎをからかう瀬伊の気持ちが少しばかりわかる気がした。
「また、おまじないを頼むかもしれないね」
「眠れない時は、すぐに言ってね?」
「ああ」
「じゃあ、あたし、朝ごはんの支度するから」
ぱたぱたと出て行ったむぎの背中を見送り、依織は自分もベッドから降りようとして、不意に自分とは違うにおいに気づいた。
(むぎちゃんの残り香、か……)
香水も何もつけていない、多分シャンプーの香りだとかそういうものが混じった甘い香り。それもまた依織に眠りをもtら瀬てくれたものだった。
「また、おまじないを頼んでみようか……」
そう呟いて、依織はくすくすと笑った。今日の目覚めはいつも以上に快適だと感じながら……。
「依織くん、お土産!」
そう言って、むぎが渡してくれたのは透明なアルコールとワインだった。祥慶学園の有志でぶどう狩りに行くことになり、引率にと借り出されたのだ。ぶどう狩りの後、ワインセラーの見学もしたのだという。
「依織くん、怒らない?」
「何?」
「あのね、味見させてもらったの。ほら、あたし、先生だし。生徒さんは飲めないからって、先生はどうぞって……」
黙っていればわからないのに、とは依織は思わない。むぎははとても正直者で顔に出てしまう。だったら、正直に言ってしまえばいいのだと、依織がわからせたのだ。字正気が長い依織の前で下手な嘘はつけないと学習したむぎなのである。
「酔っ払って、誰かに甘えたりしなかった?」
「大丈夫だよ~。ワインにも色々あるんだね~」
テイスティング程度の量には酔わないらしい。少しずつ鍛えれば、一緒にワインを楽しめるのかもしれない、そんな風に依織は思う。
「こっちはワインで、こっちはグラッパって言うんだって。葡萄で造る焼酎みたいなものだって聞いたの」
「ああ、焼酎もグラッパも蒸留酒だからね」
「うん、そんな風に聞いた。食後に飲むお酒なんだってね~」
あまり深くは考えず、ただのワインをお土産にするのも面白くないと考えて、グラッパにしたのだという。
「こんなに透明な葡萄のお酒って見たことないから、思わず買っちゃった。あの、依織くん、嫌いじゃない?」
「いや、そんなことはないよ。僕のために買ってきてくれたのだろう?」
アルコールを年齢的にたしなめる依織のためにとかって来てくれたその気使いが嬉しい。そして、その気使いに便乗してみる気になった。
「君を食べた後に飲んでみると、また食べたくなるのかな」
「……はい?」
「食後に飲むといいお酒なんだよ?」
にっこりと笑ってはいるが、言ってることはとんでもない。
「え、えーと……」
後ずさりはするけれど、しっかりと腕は囚われていて。
「この瓶を開けるのが楽しみだね……」
耳元に囁かれた声に、むぎは紅潮するしかなくて。試飲したどのアルコールよりもむぎを酔わせるのであった。
こうして、一緒に眠るようになってから、依織の眠りは穏やかなものになりつつある。眠れなかった日々がある意味、嘘のように感じられるほどに。身体を重ねなくても、ただ一緒にに夜を過ごす、それだけで満たされる。むぎのぬくもりが依織を安らかな眠りへといざなってくれるのだ。
「君もそうだと嬉しいのだけれども……」
両親を失うという、心に強い傷を受けたはずなのに、けっして弱さを吐きだすことはなかった。誰も知らないところで流した涙もたくさんあったろう。だからこそ、この腕の中がむぎにとって安らぎの場であればいい、そう願う。依織自身がむぎの存在に救われたように。
「愛しているよ……」
溢れだす愛しさは全てむぎの元に。そっと、その頬に口付けを落とした。